【特集】三溪園が守り継ぐ、美と歴史の宝
2021.10.09
第1章 歴史と芸術文化を愛した原三溪
三溪園は、京都や鎌倉などから移築した歴史的建造物等が、自然と調和し見事な景色を作り上げているのが魅力の一つとなっています。
庭の設計、建物の配置計画などすべてここを所有していた原三溪の手によるもので、様々な事例に学んでいること、そしてそれを活かす
抜群の美的センスを持ち合わせていたことが伺えます。
建造物を移築し庭園を造り上げたことに関しては、芸術的な観点からの評価と併せ、歴史学的にも高く評価されてしかるべきです。
江戸から明治に世の中が変わった際は、様々な点で大きな変革がもたらされました。欧米列強と肩を並べることを目指し西洋文化が
推奨されるようになると、旧来の日本文化は古臭く役立たないものと軽視されるようになり、また国家による「神仏分離令」および
神道の奨励は、仏教を蔑ろにする風潮を生みだし、極端には「廃仏毀釈」など仏教文化自体を否定し棄却する流れすら生じてしまい
ました。さらに江戸時代に大きな権力を持っていた大名・武士階級の凋落は、彼らが支えていた寺院の衰退にもつながり、明治時代
に廃寺となってしまったものも少なくありません。
写真:京都・大徳寺内の天瑞寺(廃寺)にあったときの覆堂。
歴史的・芸術的に価値の高いものが顧みられることなく失われてしまっていった時代に、原三溪は伝統ある文化・歴史の遺産を大切
に守り継ぐことを、ここ三溪園で個人の力で展開しました。古美術商を通して伝統的な絵画や彫刻、工芸品などを蒐集し、同様に
歴史的建造物もコレクションとして入手しています。
原三溪の美術品蒐集については、古美術商への書簡や種々の聞き取り調査などから入手の経緯などが分かっているものもありますが、
ほとんどは経緯や動機が不明瞭です。建造物については入手先が不詳のものもあり、戦後の調査によって判明したものなどもあります。
現状記録から分かっているのは、どの建造物も旧来あった場所が廃寺になった・旧来の持ち主が十分な維持管理をしきれなくなった等
の条件のため移築を行ったということで、これは現在の文化財保護法に通じる考えのもと、原三溪が移築を行っていたことを示して
います。また移築に際しては「役に立たなさそうな古材まで晒し木綿で一つ一つ丁寧に包んで運び出した」(月華殿移築に際しての
聞き取りより)などの記録も残っているほか、近年行われている修理事業での調査より、傷みの著しい古材でも出来るだけ再利用
している状況なども確認されており、建造物を単なる形としてだけでなく、資料として歴史を伝える価値観を認識して移築を行った
ことが伺えます。一方で臨春閣や月華殿などは、移築前は屋根が瓦葺きであったものを移築に際して檜皮葺・杮葺に改め、臨春閣は
棟の配置すら変更するという大がかりな改造を行ってもいます。しかしそれによって庭園内の景観との調和が図られ、より一層美しい
景色を作り出しており、伝統と歴史を重んじながらも、自らの美的感覚に確たる自信をもって建造物の移築を行った三溪の理念を垣間
見る事が出来ます。
実際にこれら建造物が昭和6年に国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されているのは、移築前の建造物の価値をきちんと守り継ぎ
つつ移築を行ったこと、移築に際しての改造が価値を寧ろ高めるに至っていることなどが評価されたためと言えるでしょう。
写真:造営中の内苑の様子
また建物をただ「遺すもの」としてみなしていたわけでなく、原三溪は「使うもの」としても認識していました。茶会やもてなし、
臨春閣では長男の結婚式を行うなど、相応しい使い方をして、より魅力的なものとなるような利用を行っていました。かつての文化財
保護の考え方はどちらかと言えば「保存」重視で、使う=傷つける・摩耗するということから活用が躊躇われてきました。しかし現代
の文化財保護は保存と活用の両輪が大事であるとされ、大切に守り伝えつつ、使うことによって本来の魅力を引き出すという考えの
もと、それぞれの文化財の所有者が試行錯誤しています。建造物は人の暮らしの器、ただ愛でるだけでなく使ってこそのものです。
保存重視の考え方から試行錯誤を経てたどり着いた現代の私たちの考え方に、原三溪は100年前から向き合っていたのです。
写真:臨春閣住之江の間における長男善一郎、寿枝子との結婚披露宴
原三溪による三溪園への歴史的建造物の移築は大正11年の聴秋閣移築が最後となり、それをもって内苑を完成とし、記念の茶会である
「大師会茶会」が大正12年に開催されました。園内に移築された歴史的建造物や三溪の構想による茶室・邸宅などには美術品が飾られ、
当代随一の茶人たち(当時の財界トップの人々)がそれぞれに茶席を構えました。自然と建築の美、歴史が織りなす壮大な景色を作り
上げた原三溪、最上の瞬間であったことでしょう。
写真:大師会茶会開催当日の三溪
横浜財界のトップとして、また芸術のパトロンとして、あるいは当代随一の茶人としての原三溪の生活に陰りが見え始めた端緒は、
大正12年に発生した関東大震災です。壊滅的な被害となった横浜の街の復興に向け、原三溪は自ら額に汗しながら一身を捧げるように
奔走したと伝えられています。横浜市の復興に注力していったため震災後は芸術家支援や古美術品の蒐集などは行わなくなったと記録
されており、晩年の三溪は自ら筆を執り数多の書画を認め、蒐集の熱を創作に向けていたことが伺われます。
横浜の街の復興もひと段落し、事業も後代に譲り静かな生活を送り始めていた三溪の生活に悲劇が訪れたのは昭和12年のことでした。
原家の跡継ぎである長男・善一郎が若くして逝去したのです。そしてそれを追うように、三溪自身も昭和14年この世を去りました。
奇しくも壮麗な三溪園の歴史の中でも最たる慶事であった長男・善一郎の結婚式が行われた臨春閣が三溪の最後の舞台となり、
弔問には建物に入りきらないほどの人が訪れたとされています。
写真:三溪の葬儀
三溪を失った後、三溪園は原家により管理が続けられました。しかしその後第二次世界大戦が激化するに伴い日本中が暗澹たる状況に
陥り、三溪園も例外ではなく空襲対策のための建物疎開・解体などの対応を取らざるを得なくなっていきました。そして近隣に高射
砲陣地があったことから園内も被弾、昭和20年には貴重な文化財建造物をはじめとした建造物が被災し、地形が歪むほどの爆撃被害
などが生じてしまいました。
第2章 三溪園保勝会発足:戦争による荒廃からの復興
写真:被災した旧天瑞寺寿塔覆堂(提供:奈良文化財研究所)
在りし日の晴れやかな姿を思い起こすのも難しくなってしまったほど荒れ果てた三溪園でしたが、戦争が終結し少しずつ人々の生活が
取り戻されていくと、復興への道を一歩ずつ歩み始めるようになります。
昭和28年原家から横浜市に三溪園の土地建物が移譲され、園を管理運営する「財団法人三溪園保勝会」が発足しました。
原家にはホテルからの買収話もあったとされますが、一般市民が親しめない場所となることは創設者・原三溪の理念にもとるとの考え
のもと、変わらず市民の憩いの場所であり続けるために横浜市との交渉が進められました。
文化財の世界でも注目を集めていた三溪園の復興事業には、その当時最上の技術・頭脳が集められ、「重要文化財建造物修理実施委員会」
が立ち上がりました。復旧作業に従事したのは伝統的な技能を受け継ぐ職人たち、その陣頭指揮を執ったのは古建築研究と古建築修理の
専門家たちです。幸い戦前に文化財指定を受けた際に取られた多数の記録が残されていたため、それらを参考にばらばらに崩れてしまった
材料なども一つ一つ丁寧に調査し修理を行い、多くの人の力が注がれ在りし日の姿がよみがえりました。被災文化財は順次修理が施され、
すべての工事が終わった昭和33年には竣工式が執り行われ、同時にそれまで原家のプライベート空間として非公開だった内苑の公開も
始まりました。
その後、重要な文化財建造物の保存管理・公開の場として知られるようになった三溪園には、新たに岐阜・白川郷より旧矢箆原家住宅
(昭和35年移築)や旧燈明寺本堂(昭和62年移築)などが移築され、園内の荘厳さがより高められていきました。平成元年には三溪
旧蔵品やゆかりの資料などを展示公開するための三溪記念館が建設され、近代文化揺籃の地としての魅力をさらに増し、さらに
平成12年には原家の旧宅である鶴翔閣の修復整備工事が完了し、文化財建造物を守りながら魅力的に活用する三溪の理念を受け継いだ
活動が活発になっていきました。
写真:平成12年修復整備工事が完了した鶴翔閣
第3章 令和の大修理事業:100年先・1000年先を見据えて
昭和の大修理事業以降も、三溪園の重要文化財建造物は絶えず細かな修理の手が入れ続けられていきました。台風や大雪などの自然災害に
よる被害への対応、また植物で葺かれた屋根は定期的な手入れが欠かせず、おおよそ30年ごとの葺替を必要とします。屋根のみならず
木造建造物の主体である木材は風雨で劣化腐朽し、維持管理のためには修理が必須です。そうした小さな修理を少しずつ重ねながら、
昭和から平成にかけて三溪園では在りし日の姿をずっと守り続けてきたのです。
しかし平成の時代になって、新たな問題が突き付けられました。1995年に発生した阪神淡路大震災では、それまで経験則と歴史から安全と
見なされてきた歴史的建造物のもろさが露呈してしまいます。その後各地で発生した震災でも文化財建造物の被害が相次いだことから、
建物内の人の安全を確保し、あるいは建物を健全に守り伝えるためには、歴史的建造物といえども十分な耐震性能を確保することが必要
であると認識されるようになっていきました。
三溪園の建造物は通常は内部が非公開のものが殆どですが、観覧の場所から建物が近いものや、特別公開などで臨時的に内部立入を行う
こともあり、地震時のお客様の安全を確保することが必定であるということになりました。そのため建物が地震に耐えうる力を持って
いるかを確かめる「耐震診断」を行い、力が不足している場合には「耐震補強」を行うという方針が立てられました。折しも30年ごとの
屋根葺替のサイクルがちょうど巡ってきたタイミングで、屋根葺替や根本修理(半解体・解体修理)に合わせて耐震診断・補強工事を
長期計画で実施することとなりました。
写真:工事用の覆い(素屋根)に覆われた臨春閣(2019年)
そのスタートとして、平成30年度より内苑一番の目玉である臨春閣の保存修理工事に着手しました。傷みの著しい檜皮葺・杮葺屋根の
葺替を主として、併せて地盤調査なども含めた調査が行われ耐震診断を実施。結果は強度不足のため補強が必要という結論となり、
そのため調査結果に基づき補強案が策定されました。耐震補強案や整備案検討に際しては、庭園や建築の専門研究者など有識者からなる
「名勝三溪園整備委員会」に案を諮り、また重要文化財であり名勝の構成要素であることから文化庁各課の指導を仰ぎながら、文化財
建造物および名勝庭園として相応しい在り方について審議を繰り返しています。文化財としての価値を損なうことなく、また後世により
良い形で建物を遺していくためにはどのような整備や補強を行えばよいのか。様々な角度からの検討と検証が重ねられ、あらゆる叡智を
絞り出し、日々試行錯誤を繰り返しながら作業が進められています。
写真:旧東慶寺仏殿解体作業の様子(2021年)
続いて令和2年度からは外苑奥の旧東慶寺仏殿の保存修理事業に着手しました。こちらは建物本体の傷み・歪みが著しいことから半解体
修理という方針となり、丁寧に一つ一つ部材をほどきながら建物を解体していきました。それに合わせて調査を実施、こちらも耐震診断を
実施して補強案の策定を行っています。
歴史的建造物は各地で修理・耐震補強が行われ、様々な知見が得られています。しかしどれ一つとして同じものの無い歴史的建造物の
修理・耐震補強の案の策定には、知恵を絞り、試行錯誤を繰り返すという大変な労苦を重ねるほかありません。過去から守り続けられて
きた価値を正しく受け継ぎ、現在の安全性・利便性にも配慮したうえで、これから先も末永く守り継ぐために。たゆまぬ努力を重ねながら
、文化財建造物は守り伝えらえていくのです。
第4章 多くの人に支えられて
臨春閣の工事に着手して間もなく、アンケートや感想ノートなどに「建物に覆いが掛かっていてつまらない」「見た目が良くない」と
いった声が届くようになってきました。工事の安全・円滑な遂行のために設けられている素屋根(工事用の仮設の覆い)は建物を覆い
隠してしまうため、どうしても見た目が残念な状態とならざるを得ません。しかしその素屋根の中では、伝統技術を受け継ぐ職人たちが
建物を守り継ぐために必要不可欠な作業に従事しているのです。ただその姿が見えないことからお客様にはマイナスイメージしか与えて
いなかった状況下、少しでも修理工事に、そして建物を守り継ぐことに親しみを持ってもらおうと「工事の現場から」というお知らせの
発信を始めました。また折に触れ修理工事の現場公開を行い、建物の美と、それを守り継ぐための技術の粋についても多くの方に
親しんでもらえるよう発信してまいりました。
写真:工事現場見学会の様子(2019年開催)
臨春閣の工事に際しては、耐震補強に伴い室内の建具などをいったん取外し、修理を行っています。それらの工芸品を展示・紹介する
目的で行ったのが、2020年秋三溪記念館で開催した企画展「臨春閣―建築の美と保存の技」です。臨春閣が受け継いできた「美」、
その美をこれからも守り伝えるための「技」をご覧いただきたい。その思いは届き、沢山の方にご来場いただき、また各種メディア
にも取り上げていただきました。さらに会期終わりに差し掛かる頃には、ちょうど「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための
伝統技術」がユネスコ無形文化遺産への登録勧告の報があり、企画展はさらに注目を集めました。
写真:「臨春閣―建築の美と保存の技」ギャラリートークの様子
三溪園は多くの方々に支えられて守り続けられています。重要文化財建造物も同じく、修理工事に従事する人、工事の設計をする人、
工事の方針を検討する人、そして工事を見守ってくださる人、たくさんの人の支えがあって成り立っています。数百年守り伝えられて
きたこの歴史遺産を、さらに数百年後も変わらず受け継ぎ続けるため、多くの方々に支えられながら日々邁進しております。
今後もどうぞ暖かい見守り、応援のほどよろしくお願いいたします。