三溪園通信
失われた草創期の建物
2026.02.02
明治35(1902)年ごろから始められた三溪園の造成は、三溪が富岡製糸場など4つの製糸場を入手し、生糸の輸出事業と併せて製糸事業にも本格的に乗り出した時期と重なる。居宅として建てた鶴翔閣を拠点にまず移築した建造物が皇大神宮・待春軒・寒月庵の3棟で、いずれも栃木・宇都宮で養蚕・製糸事業を展開した大嶹(おおしま)商舎の製糸場内にあったものだった。大嶹商舎は、江戸の有力な材木商・川村伝左衛門が設立、西洋の製糸技術を導入した器械による操業は官営の富岡製糸場よりも一年早く、明治4(1871)年から始められた。そして高品質の輸出用生糸の生産を目指したその技術は、明治9年から11年の間に開催された、フィラデルフィア・内国(日本)・パリの各博覧会で相継いで高い評価を得た。
この製糸場を入手し技術を受け継いだ三溪がゆかりの建物を三溪園内に移したのは、単に野趣ある建物の風情が自ら造成する庭園の構想に適っただけではなかった。事業の近代化と拡大を推し進めた先駆者・川村伝左衛門の功績をぜひオマージュとして遺しておきたかったのだろう。
3棟の建物は、その後戦災などで失われ残念ながら現存していない。開園120周年を迎えている今年、三溪のこうした思いを考える機会としたいものである。
《昔の待春軒》現在の茶店・待春軒の場所にあった建物で。当時、“御やすみ、お茶御随意”という看板が掲げられ、来園者は自由に休憩ができた。

(2026年2月号広報よこはま中区版寄稿)














