三溪園通信
三溪園と忠臣蔵
2024.11.01
毎年師走になるとドラマやニュースなどで話題にのぼる忠臣蔵。江戸時代の元禄15(1703)年の旧暦12月14日に赤穂藩の浪士四十七士が主君の仇討(あだうち)を果たした事件を題材としたストーリーは、江戸時代には歌舞伎や人形浄瑠璃に採りあげられ、「仮名手本忠臣蔵」の名で広く大衆に親しまれた。
豊臣秀吉ゆかりの旧天瑞寺寿塔覆堂、織田信長の弟・有楽斎の作と伝わる春草廬など、歴史上に名を遺した人物にゆかりの遺物が数多く集められた三溪園にも、この忠臣蔵ゆかりの建造物がかつて存在した。現在茶室の林洞庵が立つ敷地にあった寒月庵だ。三溪が栃木県内に所有していた大嶹(おおしま)製糸場から移した草庵の建物で、江戸の豪商・川村伝左衛門の旧蔵といわれ、元禄の頃には四十七士の指揮を執った大石内蔵助がここにたびたび遊んだと伝えられた。三溪は、この内蔵助に大いに関心を寄せていたようで、内蔵助自筆の俳句の掛軸を所蔵し園遊会で披露したほか、兵庫県赤穂市の屋敷跡に遺る長屋門にも足を運んで「義士大石大夫旧邸」という絵を遺している。
寒月庵に代わって跡地に建てられた林洞庵は昭和45(1970)年に茶道の宗徧流林洞会から寄贈を受けた茶室である。同流派の祖は山田宗徧。赤穂浪士の仇討に接点のあった人物である。本茶室の寄贈が寒月庵の由緒が前提となったかは定かではないが、忠臣蔵の物語の記憶が別の形で受け継がれていることは興味深い。
三溪はしばしばこの寒月庵で茶会を開き、客をもてなした。

(2024年11月号広報よこはま中区版寄稿)














