三溪園

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三溪園通信

【特集】三溪園「梅」物語

2023.02.03

 

梅は、ほかのどの花よりも早く咲き、待たれる春の兆しを知らせてくれることから、古来「百花の魁(ひゃっかのさきがけ)」と呼ばれ、広く親しまれてきました。

原三溪もこの花を好み、三溪園の造成にあたってまずこの植栽に力を注ぎました。由緒ある建造物の移築と同様に梅も古木にこだわり、江戸時代から名の知られた東京・蒲田、川崎・小向(御幸)、磯子・杉田の梅林から、その数2000本余を集めたといいます。

2023年1月4日現在、早咲きの梅が咲き始めています。園内に今も500本ほどある梅のなかには、三溪の時代に移植された木も遺されています。

ここでは三溪園の梅にまつわる物語をお伝えし、その魅力をお届けします。

 

 

第1章:完成前から注目された梅

 

写真:明治39(1906)年の開園まもない頃の三溪園正門

 

当時は扉もなく、「遊覧御随意 三溪園」の表札が掲げられた門柱があるのみで、昼夜に限らず誰もが自由に出入りできました。  

三溪園が一般に公開されたのは明治39(1906)年のことでしたが、このとき庭園はまだ造成が進められている途中でした。

翌40(1907)年2月、依然造成半ばにあった三溪園を”仙女”なる横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)の記者が訪れ、7日の紙面に園内の様子を次のように伝えています。

「…著名の梅園を一邸に集めたるは芳香を双袖に占めんとにはあらず…門戸を開きて万衆の来たり観るに任せんがためなり。…園丁なおしきりに梅樹を移し植え、あるいは枝を支ふる者、根を固むる者、ここかしこに団をなし、大工は斧鑿をふるいて盛んに園亭を造る。…梅樹多くは古木にして、枝幹地をはい、あたかも臥竜のごとくその移植の困難なりしを想像するに堪えたり。」

どうやら記者は訪問の際に三溪に会うことなく、この記事をまとめてしまったようで、新聞を見た原三溪は、すぐさま同月15日・16日に「御幸の梅、余が三谷の梅園に就て」と題して、返礼の寄稿をしています。掲載のお礼を述べつつも、そもそも梅を移植することとなったいきさつについてを知らせたかったと書いています。

「なかなかに公衆の遊覧に供せんには、設備なお半ばにも成らず。今はしきりに諸々の作事を急がせおれども、明春開花の頃ならでは概略の備えすらおぼつかなき…なお一の遺憾とする所は園主が女史(記者)にこの梅樹の歴史を語るの機会を得ざりし事にて候。元来余がこの梅園の移植を思い立ちしはふとしたる動機によりたるものにて、往にし春…小向の梅園に遊びけるに、折柄園の主人榎本氏と花の下にて、よもやまの話の末、園の主人の語らるるには…今は梅樹老いて実を結ぶことの甚だ少きのみか、この園の必要なる次第もあれば、やむなくも来る夏の過ぐる頃切りて薪となさんことの余儀なきに至りぬと。余はその意外なるに驚き…われ請けて我が園に移植し永く百歳の春をめぐらさばやと、たちどころにその意を述べたるに、主人てのひらをうちて喜び、この霊樹を惜しんで移植せられんこと我が本懐、これに過ぎたる事やあると。…これが余がこの園を営むの因縁にして…縁起物語なり。」

この梅の移植計画はすでに明治38年には準備が進められていたようで、三溪は同年5月に庭師の海老沢亀二郎を庭園研究のために京都・奈良の名所旧跡を視察させ、途中雄大な渓谷に梅林が広がる月ヶ瀬にも足を向けさせています。

また、大正15(1916)年の横浜貿易新報の記事「三溪園の十一年 庭師の親方浪さん(和田浪蔵)の話」にもこの移植のことが触れられています。

「…この谷が庭園になるというので私の抱えられましたのは今から十一年前(明治38年)のことです。…三年がかりで小向の梅を七百本、杉田の梅を四百本植付けました。御承知の通り小向も杉田も日本で名高い梅の名所ですから、三年の後には実に見事なもので、春の花の隧道が出来て、その頃の三溪園は梅で名高くなりました。」

 

写真:当時の梅の様子。古木にこだわって移植されたことがわかる

 

かくして、三溪園の梅林は明治41(1908)年2月の花の季節には間にあい、無事完成をみるに至りました。

三重塔以外は主な建造物の移築もほぼ終了し、一般公開部分(現在の外苑)の庭園が完成、三溪園にとって一つの節目となったのです。

写真:現在の園内に遺る古木「臥竜梅」
三溪の厚い支援を受けた日本画家の下村観山は、この梅に想を得て名作「弱法師(よろぼし)」(東京国立博物館所蔵、重要文化財)を制作したことで知られる。

 

 

第2章:硬軟の企画を揃えた完成イベント

 

令和の元号は、万葉集の中にある梅花の歌32首の序文から採択されたものです。

この序文は、奈良時代のはじめに九州・大宰府の長官を務めた大伴旅人(おおとものたびと)が自邸で梅花の宴を開いた際のものといわれています。

三溪がこの故事を知っていたかはわかりませんが、明治41(1908)年2月に行った三溪園(現在の外苑)完成記念の観梅会では、参加者に詩歌や川柳などを作らせるといった同様の風流な催しを行っています。詩歌は「暗香集」という冊子にまとめられ、三溪がその序文を書いたようですが、現在その草稿「観梅会の記」が残されているだけで詳細はわかっていません。

 

写真:原三溪筆「観梅会の記」(三溪園所蔵)
冒頭には「明治戊申(41年)の春三溪園成るを告ぐ」とある。(三溪園所蔵、現在は展示していません)

 

三溪が開催したこの観梅会では、ほかにも様々な趣向を凝らした至れり尽くせりの企画がふんだんに盛り込まれていました。

この時の模様を伝えた「横浜貿易新報」(明治41年2月23日)の記事を見ると、三溪が経営していた原合名会社や関係していた銀行の従業員とその家族の慰労を兼ねたものだったことがうかがえます。

「…梅一輪づつに気は暖き昨二十二日午前十時より、原三溪氏は春深きその別所いわゆる三溪園に店員及び関係銀行員その他三百五十余名を招待して観梅園遊会を催したり。広き庭園に雅趣を凝して布置せる各旗亭は何れも模擬店に充てられ…」

記事は続けて各模擬店の内容にも詳しく触れています。

  • 上州より移して鎮せる天照太神宮(皇大神宮、現存せず)の祠前には、ビール店あり。
  • 数寄を尽くして名も床しき待春軒(現存せず)には、下戸党の舌打ちすべき鴨めしありて、ここには釈宗演禅師(当時の鎌倉東慶寺住職)が来賓の嘱に応じて記念の扇子をその達筆に染め…
  • 池畔の寒月庵(現存せず)には主人三溪氏自身点茶の点前に接待役を勤め…
  • 頂上の見晴らしには三国一の白酒、中にも珍とすべきは蕎麦店の床に掛けたる大石良雄(内蔵助)の真筆「山端や月雪花のおくれ蕎麦」との一幅なり。
  • その他、汁粉、おでん店等、豊富なる飲食物を店員及び一家の人々にて愛嬌よくすすめ、用意の周到なる歓待の至れる…
  • 園遊会記念として来会者には唐木製の菓子器に梅団子を入れて贈りたり。

 

三溪によって移植された梅の古木は、その後老朽による枯死や自然災害、戦災などによりその多くが失われてしまいましたが、中国・上海市から蘇州産の緑萼梅・紅梅が贈られるなど新たな魅力も加わりました。

伝統を受け継ぎつつ新しい文化の醸成にも支援を惜しまなかった三溪のように、三溪園の梅もまた進化しています。

写真:横浜市の友好都市、中国・上海市から贈られた緑萼梅

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