三溪園

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三溪園通信

大正12年の原三溪 —良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災—(第2章)

2024.02.28

関東大震災

 

大正12年9月1日、土曜日の11時58分、大きな揺れが関東を襲いました。

 

相模湾沖を震源としたマグニチュード7.9の大地震は、開港以来60年にわたってかたちづくられた横浜の瀟洒な街並み、

公共施設等のインフラ機能に大きな被害をもたらしました。

 

市内から発生した火災は強風に煽られ、市の中心部を焼き尽くしました。

35,000棟を超える家屋の倒壊・消失、26,000人の死者・行方不明者という惨状は、横浜に暮らす人々の日常を一変させるものでした。

 

《展示作品》

牛田雞村「震災スケッチ」

 大正12年(1923)

 牛田雞村(1890-1976)は、原三溪の支援を受けた作家の一人。震災直後の横浜市内を歩き、その惨状をスケッチブックに描きのこしています。
    生々しく記録されたこのスケッチブックを、雞村は大切に保存していたということです。

原三溪 『三溪帖』草稿

 大正末期、三溪は所蔵品を紹介する豪華な図録の制作準備を進めていました。
 版下ができあがり、あとは印刷出版するのみという段階で関東大震災に遭い、出版社の倉庫で焼失してしまいました。
 所蔵品の由来と解説は三溪自ら執筆したものでしたが、震災により幻の図録となってしまいました。文章の草稿のみが現存しています。

 


 

公人として大切にした三つの信条

 

原三溪が自らの来し方を振り返り、65歳の頃に執筆したとされる「随感録」(昭和8年)には、

公共の事業を担うにあたって心がけていた三つの信条が記されています。

三溪の生き方・人生観を端的に表した言葉は、震災にあって三溪がとった行動を代弁しています。

 

 


 

箱根から横浜へ 三溪の足取りをたどる

 

関東大震災が起きたそのとき、原 三溪は箱根にいました。

休暇を利用して、ホテルニューグランドの社長・野村 洋三と芦之湯の別荘「去来山房」に滞在していたのです。

徒歩で三溪園まで戻った4日間の足取りを『原三溪翁伝』の記述をもとにたどります。

(藤本實也 著『原三溪翁伝』思文閣出版/2009年)

関東大震災で崩れ落ちた松風閣

 

《展示作品》

箱根から横浜への道のり

三溪園の被災状況

 


 

横浜の復興と原三溪

 

9月5日(水)求められるリーダー

 

三溪が無事に戻ったことを知り、原合名会社の小島周が駆けつけ、生糸貿易の復興を力説、三溪に決起を促しました。

このとき、外国人貿易商社員は既に神戸に移り始めていたのです。

横浜の市場復興を急ぐ必要を充分に承知していた三溪でしたが、自ら先頭に立つ責任は重く、

ほかの意見も聴いてから判断したいと、この日は要請に応じませんでした。

 

 

9月6日(木) 決断と責任

 

横浜商工会議所の会頭・井坂 孝と横浜の復興について意見交換を行った三溪は内なる決意を固めます。

信頼を寄せる多年の友人からも奮起を促されたのです。

しかし、横浜の生糸貿易復興を先導することを正式に引き受ける前に、三溪は確認しておきたいことがありました。

政府から資金的援助が受けられるかどうか―。

三溪は井坂にこの確認を託しました。

 

 

9月7日(金)横浜貿易復興会 結成

 

午後2時、横浜公園において横浜蚕糸関係有志大会が開かれました。

参集した100名は円陣をつくり、拍手のうちに「蚕糸貿易を1日も早く復活すること」が決議されました。

この決議をもって、幹事は直ちに三溪園へ赴きます。

そして、横浜貿易復興会の会長に就いてほしいと三溪に熱く思いを伝えました。

しかし、三溪は首を縦に振りませんでした。井坂の報告を待っていたのです。

 

 

大蔵大臣・井上準之助 横浜復興支援を約束する

 

井坂は政府の意向確認のため、急ぎ、東京に向かいました。

9月3日(月)に成立したばかりの山本内閣で大蔵大臣を務めたのは日銀総裁の井上準之助。

幸い、井坂は井上大臣と同窓の仲。大臣は力強く援助を約束します。

 

「原君は速やかに陣頭に立って進むべきだ、自分はどこまでも支援を惜しまない、日本銀行、正金銀行からも充分に援助を与えよう」

この言葉を三溪に伝えるため、井坂はとんぼ返りで横浜に戻りました。

 

 

9月8日(土)横浜貿易復興会の会長となることを決意

 

井坂から井上大臣の激励を伝えられた三溪は、公に、この大任を引き受ける覚悟を決めます。

早速、復興までの道筋をつけるための具体策と組織づくりについて、井坂とともに夜を徹して議論を交わしました。

 

 

9月10日(月) 横浜貿易復興会会長 就任あいさつ

 

1週間で横浜港での取引を開始することを宣言。

「私は諸君と共に如何なる奮闘をしても今後1週間の後即ち来週17日には市場を開始する事を天下に向て声明します」

 

 

9月17日(月) 横浜生糸市場を再開

 

生糸の主な輸出商が、神戸港に移ってしまえば、市場は成り立ちません。

三溪は動きました。

主力である三井物産の横浜支店に自ら出向き、支店長の井上治平衛に対し、横浜にとどまるよう直談判を行ったのです。

 

三溪の懇願と復興に対する並々ならぬ決意を前に、

井上支店長は拠点を移さないことを了解しました。

 

三溪はまた、震災による焼失生糸の損害の負担を調整。

製糸家、問屋、銀行、輸出商それぞれの負担割合をとりきめ、

損害による混乱を治めました。

 

こうして、宣言どおり1週間で横浜生糸市場が再開、9月17日(土)午後から取引が開始されました。

 

 

9月19日(水) 横浜市復興会 結成

 

桜木町駅前のバラックに設けられた横浜市役所仮庁舎において、横浜市の復興に関する協議会が開かれ、200名が集まりました。

神奈川県からは松原内部長、森岡警察部長、横浜市からは渡辺市長、青木・芝辻両助役らが出席するなか、会長に原 三溪が指名され、満場一致で可決されました。

 

 

9月30日(日) 横浜市復興会長 就任あいさつ

 

午後2時、創立総会が開会。出席委員97名を前に、三溪は会長として挨拶を行いました。

焼け野原になった横浜市の現状を真正面から受け止めながらも、いまなお〝三つの光明〟が見出し得ると説き、出席者を勇気づけました。

 

 


 

震災を機にやめたこと

― 芸術家への支援
― 美術作品の蒐集

 

震災によって、自身の原合名会社も大きな損害を受けるなか、横浜の生糸業界全体を維持するために奔走した原 三溪。

資金の注力先を復興のためにあて、芸術的活動は、自ら絵筆をとることにのみ徹しました。

自身の力を今どこに注ぐべきか、意識的に選択し決断していたことがわかります。

 

《展示作品》

原 三溪「濱自慢」

復興小唄「濱自慢」レコード

 大正14年(1925)
 横浜を象徴する白い鴎(かもめ)が飛びかう港の空と「復興小唄」の歌詞がしたためられた掛軸です。
 画面上方に書付けられた復興小唄「濱自慢」は、三溪が横浜市の復興事業が着実に進行していくのを祝し、自ら作詞したものです。
 節と振付もなされて市民に親しまれ、花柳界でも随分もてはやされました。
 掛軸上方には、原三溪が作詞した「濱自慢」の歌詞が記されています。

 【歌詞】
 横浜よいところぢゃ 太平洋の春がすみ わしが待つ舟明日つくと 沖のかもめがきてしらす
 横浜よいところぢゃ 青葉若葉の町つづき 屏風が浦の朝なぎに 富士がめざめて化粧する
 横浜よいところぢゃ 秋の青空時雨もしよが 濱の男の雄心は 火にも水にもかはりゃせぬ
 横濱よいところぢゃ 黄金の港に雪ふれば 白銀のせてつみのせて 千艘万艘のふねがよる

 こちらから、当時の「濱自慢」の音源をお楽しみいただけます。

 


 

関東大震災、その後

 

大正13年(1924)大師会茶会 休会
9月19日 横浜市復興会 創立1周年記念総会

 

大正14年(1925)大師会茶会 休会

 

大正15年(1926)
9月30日 横浜市復興会 3年間の復興事業を成し遂げ、解散
10月17日 東京・護国寺にて大師会茶会 開催

 

昭和4年(1929)
4月23日 昭和天皇が復興を遂げた横浜市を視察
4月24日 復興祝賀の記念式典が野毛山公園で開催される

 

 


 

展示風景

展示風景

 

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