三溪園通信
大正12年の原三溪 —良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災—(プロローグ)
2024.02.28
1923(大正12)年は、三溪園の創設者・原三溪にとって起伏に富んだ波乱万丈な1年でした。
春、三溪園全園完成を期して華々しく開催された大師会茶会。
そして、9月1日に起きた、横浜に甚大な被害をもたらした関東大震災。
焼け野原になった横浜の現状を「1枚の白紙である」と捉えながらも、
そこに新しい文化の活用と街並みの再建の可能性を見出した三溪。
周囲からの要望に応えるかたちで、横浜貿易復興会、横浜市復興会の会長として
リーダーシップを発揮したことは、今日あまり知られていません。
本特集では、関東大震災から100年を迎えた2023年に開催した企画展
「大正12年の原三溪 —良きも悪しきも:大師会茶会と関東大震災—」の展示に沿って紹介します。
「富」という豊かさを手に入れたとき、あなたはどうしますか?
原三溪は庭を造り、古建築を移築し、美術を蒐集し、若い芸術家を育てました。
なぜか?
江戸時代以来の鎖国が終わり、国が開かれた明治時代。
横浜が開港し、多くの人の眼差しが西洋文化へ向けられていたなか、
日本の歴史・文化を護り伝えることが大切だと考えたためです。
原三溪が住まいとした鶴翔閣(かくしょうかく)から見た三溪園の景観です。
大正元年(1912)に原三溪が造らせた原家初代・原善三郎の銅像をはじめ、
大正3年(1914)に移築された三重塔が写されています。
明治39(1906)年 三溪園 (現 外苑エリア)を開園
38歳の原三溪は、先代・原善三郎から引き継いだ三之谷の地を造成し、一般に広く公開。
365日、 24時間、無料という体制は、驚くべきことです。
自分が住む敷地の一部を、文化と憩いの場として開放した背景には、地域振興への思いもありました。
開園間もない頃の三溪園入口
正門左の門柱には三溪自筆による看板「遊覧御随意 三溪園」が掲げられました。
右の門柱には英語で「The public is cordially invited to this garden」と記されています。
大正11年(1922) 三溪園 全園 完成
原 三溪が「神髄たる残半分」と称した内苑の完成をもって、全てのエリアが完成しました。
開園から足かけ16年、三溪は54歳を迎えていました。
造成にあたり三溪が心を砕いたのは、地形に即した古建築の配置と建物内からの眺め。
幼い頃から山水画に親しみ、自ら絵筆をとった三溪ならではの「絵心」ある庭園が創られました。