三溪園

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三溪園通信

造成当初の庭師たち

2023.03.06

三溪園の造成が始められた頃を伝える資料に明治36(1903)年に原三溪が奈良の骨董商に宛てた書簡がある。

雇い入れた庭師に奈良や京都方面を視察させるにあたりその面倒を依頼する内容で、書中では特に奈良のある地点から塔と三笠山を望む眺望をぜひ見せてやってほしい旨を強調している。

現在、三溪園の代表的な景観となっている池越しの三重塔の風景との関連性をうかがわせる点で興味深い。

庭師たちはこうした経験を踏んで三溪が構想した庭を着々と造りあげていったが、そこには試行錯誤の苦労もあった。

神奈川新聞の前身「横浜貿易新報」の大正5(1916)年9月22日の紙面には、当時三溪園で庭師の親方を務めていた和田浪蔵が記者の取材に応じて、雇われた11年間を回想した記事が見える。

これによれば、川を掘りその土を盛って庭園の形ができあがると、3年がかりで磯子の杉田などの名所から梅を移植したものの暴風により1000本ほどが枯死、わずかに残ったのは400本ほどであったこと、そのあとに植えつけた96種10万株を誇った花菖蒲も長くは続かず、船三艘を仕立てて他所に運んだことなどが記されている。

現在ある三溪園の花菖蒲は、規模こそ昔に遠く及ばないが、往時の庭師たちの努力を想って眺めてみると、また違った印象に映るかもしれない。

(220511広報よこはまなか区版寄稿)

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